AI時代には「ナイス」な人が必要だ

竹槍突撃から抜けられない日本

2016年は、AIやロボットが僕たちの雇用を代替するという議論が一般に大きく取り上げられた年だったということになるだろう。この手の話は数年前から盛んに論じられていたけれど、政府の「第四次産業革命」なんてビジョンも出てきて、データ活用の分野を中心に、日本が海外勢の下請けになるかリーダーになるかの分岐点だなんて話になった。テクノロジーによる雇用の代替をテーマにした授業やゼミは人気になり、学生たちの関心が高いこともうかがえる。他方、シェアリング・エコノミーの分野でも民泊を中心に議論が進んだし、仕事を分け合うという点では「ギグエコノミー」なんて言葉も定着しつつあるようだ。

しかし実際のところを見ると、こうした掛け声とは裏腹に、何度も指摘されてきた「日本的な問題」がここにも顔を出しているように見える。つまり『失敗の本質』などに登場する、集団的な意思決定の難しさだとか、長期的なビジョンの欠如だとか、目先の目標に対する現場レベルでの高い忠誠心と努力だとか、そういう問題だ。

それを象徴したのは、電通による広告費不正請求問題と過労死問題、そしてDeNAによるキュレーションメディア関連の騒動だ。僕の見立てでは両者には、本来ならロボットや人工知能で自動化して処理可能なタスクを、安価に買い叩いた人間の労働に任せ、かつ自動処理に劣るパフォーマンスしか上げられなかったという共通点がある。電通の場合はウェブ広告の出稿に関わる処理が、一部の部署の個人に大きな負担としてのしかかり、しかも不正請求が発生するレベルの管理しかできていなかった。DeNAに至っては、ウェブを通じて格安で集めた労働力に剽窃のマニュアルを渡して記事を作らせていた。イメージとしては、たくさんの人に「お隣さんからちょっとずつ醤油を盗んでこい」と指示し、それを集めて新品の瓶に詰め、自社の醤油として売り出していたと考えれば分かりやすい。「シェア」という仕組みのもっともダメな部分が出てきた格好だ。

問題は、人工知能だロボットだと言われている時代に、なぜ「人力AI」のような、竹槍突撃さながらの手段しかないのかということだ。おそらくそれは、その方が短期的にコスト安であることや、そこに労働力を提供してしまう人の存在がある。この点について僕は、今年の夏前の段階で既に分析していた

資本主義の仕組みを変えるはずのシェアリング・エコノミーが、まさに資本主義の仕組みそのものであるかのような薄利多売につながってしまうのはなぜか。ここには2つの問題がある。ひとつは、そもそもシェアリング・エコノミーの前提となるプロシューマーは、経済が成長した果てに人びとが無数の余剰を抱え込んでいることで登場するという点。前近代社会の場合、市場経済が未発達だったこともあって、作ったものがそのまま交換に回される傾向が強かったのに対して、成熟社会においては市場経済の取引の余剰分が、名誉や賞賛といった価値観で取引される。シェアリング・エコノミーの場合、この「余剰」が「自分の持っている資産の休眠分を有効活用する」のではなく「他に売るものがない人びとが自分の資源を廉価でバラ売りする」となったときに、市場破壊的な意味を持つことになるのだ。

神と天才とユートピア 第二部 パフォーマティブ労働の時代(2) 薄利多売のパフォーマー

天才に頼る時代の終わり

そもそも僕が「神と天才とユートピア」という連載(要するにシリーズもののブログだ)を書こうと思った動機は何だったのか。2014年に書いた第一回の文章で僕は「僕はこの連載で、僕たちに自由な表現を強いることで儲かっている誰かの存在や、その仕組みについて書きながら、もう、そういうの気にするのやめようぜって話をしようと思っている」と書いている。上記の文章にまでつながる一貫した関心は、既に最初から宣言されていたわけだ。それで、今年になっていろんな状況がようやく書こうとしていたことに追いついた一方で、書きたいと思っていた「その次」も見えてきたので、ここであらためて、自分の考えていたことをまとめておきたい。

「神と天才とユートピア」というタイトルに込められていたのは、次のような意味だ。まず「神」について。ここで「神」と呼ばれているのは、ネットスラングでいうところの「ネ申」、つまり、誰もがやろうと思ってもできないことだったり、言えなかったことを実行し、発言するような、「そこにシビれるあこがれるぅ」と賞賛されるような存在だ。こうした存在は、ソーシャルメディアの登場とともになり手、受け手ともに拡大したのだと思う。またそこで挑戦すべきタブーも、半ば冗談のつもりのネタではなく、直接的な政治・社会問題へとスライドした。ネットで「神」になろうとする人びとが歯に衣着せぬ物言いで脚光を浴び、社会の全体ではなく、不満を抱えた一部の層の「代弁者」として表舞台に躍り出るという出来事の帰結は、今年、多くの人が目にしたとおりだ。

「天才」は、「神」に似ているがちょっと違う。ここで想定されていたのは、一般の人間には計り知れない壮大な野心や革新的なビジョンを持ち、ときに激しい物言いで周囲を圧倒しながら、自分の信念を貫いて世界を変えるような、要するにジョブズ的な存在だ。実際のジョブズがどういう人間で、アップルという企業にどのような影響を与えたのかについては評価できないけれど、少なくとも彼はそういう存在として広く認知されている。そしてここでも、そのような存在になりたいという人たちが、彼のスタイルをコピーして耳目を集めようとした。

そこで登場するのが「ユートピア」という概念だ。これは「神」にかかるときには、誰もが小さな声の代弁者になれる世界こそユートピアだという理念を意味するのだけど、「天才」にかかるときには、その人が持っている革新的なビジョンや、それによって実現する「よりよい世界」のことを指す。海外ドラマ「シリコンバレー」で主人公は、かの地に集まる起業家たちがこぞって自分のアイディアを革新的なものとして売り込み、「世界をよくする」と主張することに辟易している。しかし現実には、エリザベス・ホームズの事例がそうであるように、「ちょっとしたアイディアで世界が革命的によくなる」と主張する詐欺師たちが跋扈したのが、誰もが「天才」に憧れた時代の実相だった。

神と天才がともにユートピアを目指して自分を大きく見せようとする時代、それを支えたのはメディアだった。そもそもホームズの例を批判的に取り上げている『WIRED』からして、過去に何度もビジョナリーな起業家を特集しているわけで、やや鼻白むところがないわけでもない。しかしながら神と天才を育てたのは、紛れもなくソーシャルメディアだったはずだ。

ソーシャルメディアも当初は、ユートピアを目指す革新的なアイディアのように思われていた。大資本のコントロールを受けることなく、人びとが自分の考えを自由に発信し、理性的に議論し、情報を共有することで世界はよくなるはずだった。しかしながら気づけばソーシャルメディアは、大資本によるステルス・マーケティングや「戦略PR」と呼ばれる巧妙な世論誘導の舞台となり、消費者にそれと知らせぬまま、「インフルエンサー」がお薦めする商品を買い、アプリをダウンロードすることが求められる場になった。企業から依頼を受けて読み手に「お薦め」するだけの人が製品やサービスをつくる人よりも重宝され、中身ではなくPRされたものこそが商品価値であるような物言いをする者すら現れた。その果てにあるのが「アクセス至上主義」に基づく記事の剽窃や偽ニュースの乱造だ。多くの人が忘れているだろうが、そもそもキュレーションメディア以前、2014年頃にも「バイラルメディア」を巡る剽窃騒動は起きていた。2016年という年は、こうした一連の流れが誰に目にも見える形で破綻した、そういう年だったように思う。

「ナイス」な人、「ナイス」なチーム

少数の天才が、凡人には計り知れない革新的な野心と独特のマネジメント方針で組織を率いて革命を起こすというビジョンに、完全に期待が持てなくなったわけではない。むしろ僕自身はそういうタイプの考え方が好きだし、そういう革命を願ってもいる。ただ、真の革命家は毎年のように登場して、ベンチャーキャピタルから多額の資金を調達できるような存在ではないというだけの話だ。では、実際のところ凡人にすぎない僕らにできることはないのか?

一人の天才を待つより、みんなでできることを探そう、というのがその答えだと僕は考えている。つまりはコラボレーションだ。

政府の「働き方改革」に呼応したわけではないだろうが、複数の企業で「働き方」を見直す動きが起きている。今年、象徴的だった事例はYahoo! Japanだろう。ジグザグに配置されたフリーアドレスのデスクや、週休3日制の検討、新卒一括採用の原則廃止など、人事に関する実験的な取り組みを発表している。同社副社長執行役員 最高執行責任者の川邊健太郎氏によると、「イノベーションというのはゼロから新しいものをつくるのではなく、既存のアイデアの新しい組み合わせ。いろんなアイデアを持った社員が交差点で出会うことによって、新しいサービスがつくられます」ということなのだそうだ

僕自身が聞いている限りでも、複数の企業で「社内カフェ」や「コワーキングスペース」を充実させているという話を聞く。もちろん、その成果が見えてくるのはこれからだし、というよりそもそもこれらの取り組みが直接の「効果」を持つのかどうかすら怪しいが、背景にはイノベーションと人材の流動性を巡る様々な状況があるのだろうと思う。天才がイノベーションを起こすのなら、そういう人間をカネで雇えばよかった。あるいは、天才かどうか分からない海の物とも山の物ともつかない連中をかき集めてきて競争させ、サバイブした人間に集中投資をするという歩留まりの悪いモデルしかなかった。

しかし、イノベーションがコラボレーションから生まれるものだとしたら、重要なのは、人材の適度な流動性と交流を確保しつつ、それが自社に集まるような環境を構築することになる。結果的に「働く」という行為は、会社の近所に従業員を集め、勤務時間を減らしつつも、オンとオフの境界を曖昧にし、他部署・他社の人間との交流を促し、そのネットワークから新たなビジネスの芽が出るのを待つようなものになる。

社会科学におけるネットワークやソーシャル・キャピタルに関する議論が示唆しているのは、人びとがアイディアを持ち寄って創発的な環境を築くのは、淘汰的な競争の場ではなく、信頼と協力関係が築かれているような場なのだということだ。淘汰的な競争をする限り、人は自分のアイディアを横取りされまいと協力を避けるようになる。自分の生煮えのアイディアを他の人に話しているうちに、それが社内プロジェクトになるような、そういう環境が求められている。

ちなみに、似たような取り組みを表面的に取り入れている大学業界だが、勤め先を見る限りこうした環境を構築するのはなかなかに難しい。それぞれの教員に異なったディシプリンがあり、またその専門性を高めようとすれば、結果的に学生を強く拘束し、「欠席は認めない」「指導には従え」という方針を取らざるをえない。僕はあまりそういうことが好きではないので、流動性を確保しながらも信頼関係を築くためにはどうすればいいかということに頭を悩ませているけれど、ますます高まる学生たちの流動性を前に、教員たちの中には「不真面目な学生が増えた」と感じている者もいるのではないかと思う。

ともあれ、少なくとも企業において従業員の中から新しいアイディアが生まれることを期待するなら、社員を強く拘束してアイディアが出るまで会議をさせるとか、手を上げた人間に社内ベンチャーを立ち上げさせて競争させるとかではなく、コラボレーションが生まれるような信頼関係を構築する、そのための場を用意するといったことが必要になる。もちろん、それらのアイディアのいずれがよいのかということは、組織の文化や制度、目標によっても違うだろうし、どのやり方を採るにせよすべてはまだ模索段階だ。

だが、個人的な好みとして、やはりコラボレーションを増やしていくという方向は、これまでの「神」や「天才」を持ち上げてきた状況に対するカウンターになると思うし、自分に一番向いてない道であればこそ、チャレンジングでわくわくすると思う。そんなときに大事になってくるのが、「ナイス」な人材やチームをどう確保するかということだ。

「ナイス」という絶妙にダサいワードを選んだ理由とも関係するのだけど、チームがうまく機能するときというのは、リーダーの素晴らしい采配ではなく、周辺的な人材の「ナイス」としか言いようのないアシストが働いていることが多いと思う。行き詰まり、沈黙が支配するミーティングをよい意味でぶち壊しにする空気の読めない人や、たまにしかやってこないくせに、それまでの議論を全否定して言い返しようのないアイディアを提案してくるメンバーを、絶妙なタイミングで茶化しながら賞賛する人など。その人自身が明確にチームに貢献していなくても、いるだけでアイディアが生まれたり、特定の組み合わせの中でだけ生き生きとする人なんていうのもいるだろう。ちなみに年末のラジオ番組の中では、『シン・ゴジラ』における巨災対なんかを例に挙げていた。

こうした「ネットワークの特性を変質させ、チームを良い方向に導くノード」のことを、僕は「ナイスな人」と呼んでいる。ナイスな人を抱えたチームや、そういう人が集まる組織を作れるかどうかが、神や天才のいない僕たちの社会の大部分で必要とされる人材なのではないか。

「ふだんプレミアム」と「ホームパーティー」

そういったわけで、「神と天才がつくるユートピアをソーシャルメディアがもてはやした時代」が終わって、次にやってくるのは「ナイスな人」が、それと気づかれずともチームをよりよい方向に導くような、そういうものであればいいというのが僕の考えだ。繰り返すけど、僕自身はナイスな人ではないので、そういう時代になると正直生きづらいだろうと思う。うまいことナイスな人のいる場に潜り込んでおこぼれにあずかれれば、と思うくらいだ。

ただ、生産のイノベーションだけでなく、消費という面で考えても、「ナイスな人」の存在が重要になるのではないかと思うところもある。ここまでの話とはやや外れるが、今年考えてきたことの締めとして、その点についても触れておこう。

消費の価値が変化しているという話は、それこそ過去40年以上語られてきた。いわく、「モノから心へ」「モノの消費からコトの消費へ」「物質文明から脱物質文明へ」「物質的な豊かさから精神的な豊かさへ」。バリエーションを挙げればキリがないが、おおむねそこで言われているのは、製造業中心、サプライサイド中心の社会から、サービス中心、ディマンドサイド中心の社会へのシフトだ。また、ディマンドサイドにおいても、「みんなと同じモノ」ではなく「私だけの精神的な充足」を求めるような変化が起きる、というのが定番の議論だ。

これらの主張には、それはいつ起きるのか、既に起きているのか、いや実は製造業の時代から精神的な価値は重視されていたのではないか、など、ツッコミも多い。僕自身は、精神的な価値が必要とされなかった時代は過去にも存在しなかったが、それを表現する手段がモノだけでなくなりつつあるという立場を取っている。また、精神的な価値の表現手段がモノでなくなるといっても、その表現方法は時代によって変化するので、「これこそが精神的な価値を表すものだ」などということは言えないとも考えている。ある人にとってはそれはオーガニックフードかもしれないし、人や時代や社会が変わればそれは、ソーシャルゲームのランクが高いことになるかもしれないのだ。

こうした留保をした上で、「ナイスな人」が求められる時代の精神的な価値の可能性について考えてみたい。そもそも、物質的な価値を考える場合に僕たちは、「高いもの=いいもの」「安いもの=悪いもの」と考えがちだ。その上で、ちょっとバブルな価値観の人なんかだと、高いもの=いいものを求めない現代の若者は草食化しているとか、いやいや貧困が原因なのであってお金さえあれば彼らだって贅沢をしたいんだ可哀想にと言われたりする。

可能性の話をしてもしょうがないので、現実に即して考えよう。まず「高い=いい」という考えについて。経済学的には需要の集まる財の価格が上がるので、これはある意味で正しい。しかしながら価格を左右する要因には供給の多寡もあるわけで、本来であれば、価格で表現されている需要の背後に、供給=消費機会の多い少ないという因子があるとは考えられないか。だとするなら「高い=いい」という価値観は、この2つを区別しないか、区別する必要がなかった状況において通用するものだと言える。

これを従来的な「ラグジュアリー」「チープ」という価値軸だとするなら、価格の高低と、消費機会の多寡を独立の変数と考え、「消費機会は多いものの、価格が相対的に高い」という消費と、「価格面では高いとは言えないが、消費機会が限定されている」という消費を、別の軸として立ててみる。前者の消費は、たとえば今日だけはちょっと贅沢して高いビールを飲むとか、仕事から返ってきた自分をリセットするために、ホームエステ機器にお金をかけるといったものをイメージするとよいだろう。パナソニックが打ち出している絶妙なコピーを借りれば、「ふだんプレミアム」とでも言うべきか。

対して後者の消費は、決して奮発するわけではないが、いつものお店にみんなで寄せ書きやビデオを持ち寄り、友達のパーティーを祝うとか、あるいは関西ではお馴染みの「たこパ(たこやきパーティー)」に集まって、普段とは違う消費を楽しむといったイメージ。ハロウィンなんかもこの中に入るかもしれない。文字通りの「ホームパーティー」とでも呼ぶべきこの消費価値では、重要なのは参加者の満足度が高いかどうかである。

もちろん、この2つの価値観がとりたてて目新しいわけではないが、前のエントリで述べたことと関連させるなら、両者は異なるオーセンティシティを有しているという点が重要だ。「ふだんプレミアム」が体現するのは、商品価値がほんものでブランド価値がにせものであるような「パロディ」的な消費だし、「ホームパーティー」においては、ブランド価値がほんもので商品価値がにせものであるような「夢の世界」の消費が見られる。

僕が特に注目しているのは「ホームパーティー」の方だ。というのも、贅沢しているわけではないが一緒にパーティーをしているから楽しい、などという関係は誰にとっても当たり前のものではないし、パーティーを開くことを目標にしてしまうと、縛られている感覚がしんどくなってしまうからだ。2年前のハロウインの折、コスプレをしているグループを観察していると、その多くが気の合う2人組か、そうでなければ5人組であることが多かった。数合わせで5人にさせられたと思しきグループでは、必ず1、2人は所在なげな人がいたものだ。それが今年のハロウインを観察してみると、多くが4人組になっていた。もう、数合わせで5人組を作ることも難しくなったのだろう。

ホームパーティーは、パーティーであるためには「細かいことはともかくたくさんの人で盛り上がりたい」というパリピ(パーティーピープル)的なものでなければならない、というのが、ここ数年の若者たちの感覚だったのかもしれないが、もうそれは彼らにとって「しんどい」ものになりつつある。むしろ必要なのは、少人数でもいいから居心地のいい集団をつくる「ナイス」な人がいるかどうか。つまりパーティーが開けるかどうかは、キーパーソンが声をかけるかどうかではなく、それにナイスな人が乗るかどうかにかかるようになっている。

ほぼ仮説でしかないこうしたコンセプトも、現段階では可能性の話でしかない。とはいえ、無理をしてでも手を上げて目立つ人間が重宝される時代が終わりを迎えるのだとしたら、次に来るのは、無理をしなくても人と一緒に何かを成し遂げることのできる、ナイスな人の時代なのだ、というこの直感が、2年くらい後には現実になっていればいいなと思う。

POST‐OFFICE―ワークスペース改造計画
岸本 章弘 中西 泰人 仲 隆介 馬場 正尊 みかんぐみ
TOTO出版
売り上げランキング: 336,633
ソーシャル・キャピタル入門 - 孤立から絆へ (中公新書)
稲葉 陽二
中央公論新社
売り上げランキング: 12,284