「傷ついた人たち」を受容すること

昨年末に書いた「『傷ついた人たち』の自己受容」というエントリは、昨年後半あたり、自分にとっての考察のモチーフでもあり、また現に起きていることを表現した話でもあった。自分は傷つけられた、傷を負ったと主張するに足る存在であることを他者に受容されてはじめて、不安定な自己像にひとつの足場が見えるのだという仮説は、他の魅力的な理論がそうであるように、あれもこれも同じ枠組みで理解できるのでは、という想像力を刺激する。

そんな折、たまたま書店で手にとったのが島本理生『イノセント』と『ファーストラヴ』だ。小説を自発的に読むということ自体もう何年もやっていなかったのだけれど、考えていることが硬派な社会論というよりは自己論に近いものだったこともあって、たまたまシンクロして引き寄せられたというところだろうか。読んでみて分かったのだけれど、どちらの作品にも「傷ついた私」を他者に受容されることが重要な主題になっており、また、そのために他人を巻き込むことに長けた人たちが、物語の中心にいる。こういうのがセレンディピティっていうんだろうなと思った。

以下は、それぞれの作品の内容について言及する。読んでしまったからといって作品そのものを読まなくてよくなるような記述は避けるつもりだけれども、気になる人は書店でお求めの上で続きをどうぞ。

『イノセント』――聖と俗の受容

まずは『イノセント』から。物語の主軸になるのは、シングルマザーの美容師・比紗也と、彼女に関わる二人の男性、真田と歓だ。真田は企業経営者、歓は神父であり、その立場も、比紗也との関わり方も対照的だ。性的な魅力、といっても、どちらかと言えば男性に支配欲と庇護欲を同時に喚起させるような危うさを伴った魅力のある比紗也は、真田と体だけの関係を結ぶ一方で、歓とはプラトニックな交流を続ける。この微妙な三角関係を中心に、物語は展開していく。

比紗也の魅力は、ある部分で「男を狂わせる」ところにある。それまでも軽い遊びの関係をいくつも持ってきた真田だが、比紗也が他の男に付きまとわれていると知り、彼女の息子とともに自宅に招き入れ、同居生活を始める。一方で歓は、神父の身であるために、そして性について重い過去を抱えているために、彼女に対する性的な関心を必死で否定しようとするが、既にそのことが、比紗也を女性として見ていることの現れでもある。2人はともに、それまでの他者との関わり方を、比紗也の登場によって狂わされている。

二人の間で揺れ動く比紗也自身も、いくつもの複雑で重い過去を抱え、自分を受容される場所を探している。女性としては真田に、そして母としては歓や彼のいる教会に受容されながら、そのどちらにも最終的な居場所を求めきれずにいる。

真田との愛はエロスであり、歓のそれはアガペーだ、といえば、この作品が、「聖と俗」を対比させながら、人が受容される場について提起しているのであることが見えてくる。神は無限の愛で汝を包んでくださる、だけれども、神に何かを求めてはならない、というキリスト教世界における受容と、恋人どうしとして求め合うことはできる、だが、決して相手のすべてが手に入るわけではないという俗世のカップル。傷ついた人を最後に受容するのはどちらか、というのが作品の通奏低音であり、またその結末も、どちらかに優劣をつけるようなものではない。

作品の主題が美しいので、こういう風に美化して書いているけれど、もっと俗な書き方もできる。つまりこの作品は、誰にでも色目を使うメンヘラビッチとチャラい社長とムッツリ神父が、互いの欲望のはけ口を求めて駆け引きしているお話なのだ、と。見方によってはそうなのだろう。結局のところこれは、受容する(したい)−される(されたい)という関係の中にあるかどうかで、関係性の見え方が大きく変わるということなのだ。

『ファーストラヴ』――傷の承認

この「関係のもち方によって見え方が変わる」という問題を扱ったのが、『ファーストラヴ』だ。物語は、父親殺しの容疑で逮捕された女子大学生、聖山環菜をめぐって動く。とはいえ環菜自身の内面の描写は、本作には出てこない。彼女は殺人の動機を聞かれて、こう答える――「動機なら、そちらで見つけてください」。

この事件に関心を持ち、環菜についての本を書くことになったことで、取材として彼女に関わることになったのが、臨床心理士の由紀。そして物語のもうひとりの重要人物が、由紀の夫の弟であり、由紀とは過去に因縁を抱える弁護士・迦葉だ。環菜の弁護を担当することになった迦葉とともに、由紀は環菜の内面を探ろうとする。なぜ殺人は起きたのか。本当に由紀が犯人なのか。由紀と父親の間には、まだ語られざる何かがあったのではないか。

実は物語の主題は、こうしたミステリーの謎解きではない。むしろその過程で明らかになる環菜の振る舞いや人間関係、そしてそれに対して強い関心を抱かざるを得ない事情を抱えた、由紀と迦葉の関係性こそが、この作品の中心的なモチーフである。環菜について調べていくうちに、彼女が複数の男性に対して強い承認欲求を向けていたこと、その振る舞いがときに過剰なものであったことが語られる。一方で環菜は、自身の関わってきた男性に対して、ある種の被害意識をもっている。食い違う両者の証言は、どちらが真実なのか。

読者の見方も混乱する。環菜は、自分の過去や傷を「盛って」吹聴することで男の気を惹くような、よくいるメンヘラちゃんなのか、それとも周囲の男たちが嘘をついているのか。これは作中のミステリーの重要なトピックでもあるが、むしろ度々繰り返される「過去の傷を明かすことで相手に受け容れられようとする」という振る舞いの是非をめぐる、大きな問題提起でもある。

前のエントリでも書いたように、人は、他者に「傷ついた人である」と受容されてはじめて、自分が傷を受けた存在であることを自覚する。だから、傷について明かそうとする人は、それが「どのような傷であったか」ではなく、できる限り「受け容れられそうな傷」であることを強調するし、また、それが受け容れられなかったときのために予防線を張る。「ほんとうのこと」を話して受け容れられなかったら、それこそ人格そのものが傷つくが、多少の脚色を加えたことであれば、否定されても自分自身は傷つかないからだ。

だが、そうやって脚色された傷を受容されたところで、それは結局のところ「ほんとう」に受容してほしかった自分とは違う。「ほんとうの自分」をさらけ出すのは怖いが、脚色された自分を受け容れられたところで満たされないとき、人は、こういう行動に出るだろう――「ほんとうの私を、見つけてみて」。

環菜にせよ、あるいは作中に出てくる似たような人物にせよ、そうした部分で他人との距離感を見誤っている。そして物語はラブストーリーではなくミステリーあるいはサスペンスであるがゆえに、『イノセント』のような受容し合う関係の方には目が向けられない。裁判の過程で明かされる「真実」、あるいは由紀による臨床心理的知見からの「分析」こそが、関係性によって見え方の異なる「傷」をジャッジするための基準として持ち出される。

個人的に『イノセント』と比べて残念だなあと思ったのがこの点だ。つまりこの作品は、関係性によって生じる問題に、「社会」あるいは「第三者」という視点から客観的なジャッジが下せるという立場でアプローチしている。それはもちろん裁判などであれば当然のように求められる姿勢なのだけれど、どこかで社会関係の複雑さを切り捨てることによって成り立つものでもある。その割り切りこそが、本作を大衆的なヒット作にしたのだとも思うし、実際、すぐにでも映像化できそうなセリフ回しや情景描写も目につく。よくできたエンターテイメントであるものの、自分が気になったのは「傷」の問題だったなあ、という印象だ。

このエントリはただの感想文なので、ここからさらに考察を加えたりはしない。ただこの2作品を期に、小説濫読ブームが始まってしまったので、もしかするとこの問題、まだまだ考察や分析が続くかもなと思うのだった。