にわかに浮上した「講義のオンライン化」という課題に忙殺され続けた春学期(前期)もそろそろ終りが見えてきた。それに関連して、毎日新聞で受けた取材では大学の講義が、「マルクスについて聞こえる空間にぼんやりと身を置き『そういえば、俺のバイト先でも…』と連想するようなことも含めたものだった」というコメントが採用されている。別にマルクスである必要はなかったのだけど、大学における対面活動の価値の一部に「当初は意味があると思えなかったものに意味を見出す」ということがある、という例として、いわば「資本主義を生き抜くのに役立つ思考」の対極として挙げたのがマルクスだったわけだ。
ただ思わず口走ったレベルの話だったものの、的はずれな例示でもなかったのかもしれないと思ったのは現代ビジネスの記事でマルクスと大学生の話が取り上げられていたからだ。景気の下降期にマルクスが注目される現象は過去にもあったけれど、ここでは資本家による搾取を説明するのに疎外論が用いられている。本来、労働の価値は労働者が生み出すものなのに、それが資本家によって収奪されているというあれだ。
実は自分も講義でマルクスに触れる際には、この点を取り上げて説明するようにしている。と同時に、労働価値説の立場からは、金やダイヤモンドに高値がつく理由や、同じ労働をしているのに流行の変化で商品の値段が上がったり下がったりする現象が説明できないことにも触れ、マルクス主義と近代経済学の考え方の違いをさらっと説明するようにしている。もう少し資本家寄りの説明をするなら、現代において商品=労働の価値を決めるのは消費者の需要であり、彼らに求められる付加価値を創造し、製品の差別化を図るのが現代の産業活動で、また文系大学に通う多くの学生にとって、この付加価値を創造する力が「シャカイジン」として生きる上で重要になる、ということにもなろうか。
教育は政治的アジテーションの場ではないけれど、自己啓発の場としては許容されているようで、まして多くの学生が民間企業への就職を志す私立大学とあっては、こういう「ウケる」話をしなければいけないというプレッシャーも感じる。まさに消費者たる学生様のニーズを読み取り、知的エンタメを提供することで他の教員の講義に対する差別化を図り、人気講師であることが何事かの価値であるような、そういうイデオロギーに囚われているのである(という話が、実はマルクスの一番おもしろいところだと僕は思っている)。
高度化する共感資本主義
とはいえこの「消費者主権」とでもいうべき資本主義観は、必ずしも悪い面ばかりではない。コトラーの「マーケティング3.0」じゃないけれど、単に消費者ニーズに応えるだけでなく、消費者との価値創出の協働を目指すことで、社会課題の解決やソーシャルグッドの実現に向けた取り組みが、経済活動として採用されるようになるかもしれない。消費者が企業に対して物申すようになれば、企業側の勝手な思い込みで送り出される製品も淘汰されていくようになるだろう。
ただしそのためには、消費者が「自分のわがままを叶えてほしい」と願うばかりではなく、「こういう商品/経済活動は、たとえ需要があるとしても社会的に許されない」という意識を持つことが必要になる。つまり、誰かの願望や需要に対して「それはあなただけの自由で許されるものではなく、他者の自由や権利を侵害し、またそうした環境や構造を再生産するものだ」と、おせっかいにも介入する意志を持った消費者や、その気持を敏感に汲み取って経済活動に組み込んでいく企業がいなければ、産業と社会貢献の両立はありえない。
お笑いの世界では「キツめのいじりは観客に引かれるようになっている」のだという。huffington postの記事によると、ツッコミも不要で、ハッピーなほうがいいという価値観が、若い世代のお笑いの送り手・受け手の中にはあるようだ。リクルートマネジメントソリューションズの調査では、2020年の新入社員の意識として、「鍛え合いや競争よりも、互いに助け合い成長していく職場が理想」「傾聴、丁寧な指導・フォロー、認知を行う、いわゆる受容型の上司像が理想」といった傾向が見られることが指摘されている。
「わがままを叶える資本主義」においては、消費者は自らの欲しいものを選択し、そのために声をあげ、よりわがままに、より自分に合ったものを求める消費者こそが求められ、また正義でもあった。共感ベースの資本主義では、むしろ他者と「わかりあう」ことが産業や消費を駆動していく。そうした傾向を、これらのニュースから読みとることができるように思う。
ただこれは、いまに始まった話ではないかもしれない。社会学の古典であるD. リースマンの『孤独な群衆』は、社会の人口動態を絡めながら、産業の発達とともに人々の社会的性格が「内部指向型」から「他人指向型」に変化していくと主張していた。そこで論じられていたのは「みんなと同じであることを求める」という同調性だけれど、社会の多様性を認める傾向と他人志向が重なり合えば、それはむしろ「私はきちんとこの人に配慮できているだろうか」という考えを呼び起こすものになるのである。
対立・葛藤・ジレンマの中で
一方で、共感資本主義には様々な危険もある。というのも「共感すること」と「違いを認めること」は、まったく別の出来事だからだ。
共感するというのは、相手の中に自分の想像しうる、いわば自分との共通点を見つけてそこに心を寄せることだ。だが「違いを認める」というとき、そこには共感することすらできない、相手との隔たりも含まれている。共感資本主義が、コトラーの言うような社会貢献につながる生産者・消費者の活動につながるか、リースマンのいう単なる同調で終わるかを分けるのは、むしろ「共感できない相手とどう関わるか」だ。
それは例えば組織の問題にもあてはまる。たとえば「共感」をベースに組織をマネジメントすると、そもそもはじめから共感できる相手としか一緒に働くことができず、チームや組織から多様なアイディアが生まれることを阻害するかもしれない。複数の人々が関わる創造的な活動においては、多くの場合、他者との対立や葛藤が生じる。また、多様性の尊重という本来の観点からすれば、多様な相手に「共感」しようとすることは、相手の立場も分かるが自分はそうではないというジレンマを経験することでもある。安直に「共感資本主義=対立を避けて共感しあう産業活動」のようなイメージで捉えると、本来目指していたものとはまったく違うものに化けてしまう。
それだけではない。「共感」は個人の内的な活動だが「分かり合う」というのは社会的な相互行為だ。もしも両者が混同されてしまえば、「人とわかり合おうとしない意固地な人とは付き合えない」「他者の多様性を尊重しない人は排除されてもいい」という、無意識の価値規範を生み出すことになる。やっかいなことにこうした人々は、自分がいいことをしていると信じているにも関わらず、その実「自分と楽しくわかり合うことができる人以外との付き合いを避けているだけ」という現実に目を向けることがない。
上に挙げたいくつかの記事にも、その危うさを感じないではない。確かに人をいじり倒して笑いにしたり、パワハラ指導を「愛のムチ」と呼んだりするような場面は、これから「引かれる=共感されなくなる」のだと思うし、それでいいような気がする。だが、ただ「引く」だけでは、どこかの番組に温存されているブスいじりや、ブラック企業のパワハラは「見えない場所」に押し込められるだけで、なんなら「それで笑う人がいるからいいんじゃない」「そういうところで好きこのんで働いてるんでしょ」という話になりかねない。「共感できる私たちはハッピー」というのは、むしろこの社会にハピネスを増やすことから背を向けているとすら言える。
自己本位化する社会の共感
あるいは「引く」だけでは済まないのかもしれない。行き過ぎた共感への志向は、自分と異なる人への配慮を欠いた、わがままな、自分たちの儲けのことしか頭にない、すなわち共感性の低い人、コンテンツ、言動は、どれだけ非難しても構わない、攻撃されても仕方がないという話にだってなりうる。
さらに言うなら、「共感を求める傾向」というのは、ほかならぬ私のことを、ありのまま受け入れてほしい、承認してほしいという願望から出発している。自分のことを尊重してほしいからこそ、他人を否定せず、対立せず、だから私のことも受け入れてくれるよね、と考えている。上記の攻撃性向は、「私は受け入れる気があるのに、向こうにその気がないのなら、心を開いてあげるだけ損だ」という互酬性の感覚と関わっているのだと思う。
コロナ禍において、人々がより自己本位的になるのではないか、という記事を以前書いた。対面の関係でなければ対立や葛藤を感じることができないとは思わないけれど、リモート会議であれば、音声をミュートにしたり、会議そのものから退出したりすることで、対立を物理的に回避することができる。そもそも画面上に出てくるのは発言者なので、明示的に主張されない多様な意見のようなものを、ファシリテーターが汲み取って場に投げ返すといったことも難しい。発言者は自分の意見が満場一致で受け入れられていると感じているが、聞き手は単にイヤホンを外しているだけ、という場に、対立や葛藤を乗り越えて共感しあう資本主義の未来は見えない。
コミュニケーションはオンラインで十分という意見に与できないのは、結局のところ、こうした自己本位的で居心地のいい場所を築いていることに無自覚であるからで、また、それができる人が限られているという事実にも無頓着であるからだ。もちろん僕は、聞くに堪えない発言者の言うことも我慢して聞けといいたいのではない。不快な発言をミュートすることと、怪訝な顔や不愉快な顔をしてその人の目の前に座っていることの間には、やはり大きな違いがあるということを主張したいのだ。
本当は多くの人が、様々な対立や葛藤やジレンマのなかに投げ込まれている。だからこそ、それらを否定しない「共感」があり得るのかを考えることが必要なのだと思う。