「裏のカリキュラム」を表に

「もしも僕がいま、二十歳の大学生だったら、それはもう相当に怒っていたと思う」という、勢いだけで書きつけたブログは、予想以上の反響を巻き起こした。といってもソーシャルメディアは見ないしエゴサーチもしないので、その反応を感じられたのはマスコミからの取材依頼を通してだった。大学生の現状を取材しているうちに、大学側からの視点として記事・番組に盛り込みたいということで参考にしてくださったらしい。

ただやっぱり、「じゃあお前は足元の学部で何をしとるのだ」という思いはずっとあった。たまたま学部執行部の仕事を担っていることもあって、動くしかない、という決意をして、1年生を支援するタスクフォースの発足を学部長に直訴したのが春学期終盤の7月。数名のチームで課題の洗い出しやそれぞれで動いていたことを共有し、秋学期に入ってからは、1年生が登校している曜日に自由参加のオフラインイベントを、ほぼ毎週開催することになった。

裏のカリキュラム・再論

そもそも、なぜこうしたことを行う必要があったのか。世間的には大学1年生の課題は「登校できない・友だちができない」ということにあると考えられている。しかしながら大学側から見ると、問題の本質はもっと別のところにある。既にいくつかの記事で書いた(リンク1リンク2)ように、大学での勉強には友人との協力や議論が外部経済として必要であり、その関係構築をないがしろにした場合、学生のフォローアップに関する負担が長期的な課題として浮上してくると考えられる。学生同士でできることは学生同士に任せられるようにしておかなければ、教員・事務スタッフの業務量は即座にパンクするだろう。

そしてもうひとつ、こうした「裏のカリキュラム」は、過去10年近くの間に、多くの大学で「表」のものになっていた。学生の面倒見がいいと言われる小規模大学でも、勤め先のような大規模私立大学でも、専門のスタッフを貼り付けたり、リポートの執筆相談ができるカウンターを設けたり、学生同士が授業時間外に議論したりプレゼンの準備をしたりするのに使える自習スペースを開設したりと、人と予算をかけて「裏のカリキュラムの表化」につとめてきたわけだ。

学費問題に関してよく議論になる「設備利用料」の中に、こうした関係構築やアドバイス、議論のための機会が含まれているというのは、妥当な解釈だろう。むろん、大学は「表のカリキュラム」の学びを守るために、オンライン環境の整備、通信端末の貸し出し、困窮学生のための奨学金など5〜20億円規模の追加予算を投入しているので「手抜き授業でカネが余ってるはずだから返せ」というのは無茶な話なのだが、「設備が使えれば得られたはずのサポートや関係」を再構築するのに人と時間を使うのは、不合理な仕事だとは言えないと思う。

関係性を構築する

その関係性をどうやって構築するのか。まずは以前の記事にも書いたように、大学側が定期的に「顔見せ」をするということ。勤め先の学部では、春先から毎週、チャペルの時間をオンライン動画で配信していたり、Twitterで情報発信をしたりする取り組みは行われていたのだけれど、定期的な対面での顔合わせの機会はなかった。そこで、秋からキャンパスへの入構制限が緩和されるのに伴い、まずは学生同士が対面する機会を作り、次いで大学から定期的なイベントを提供するという形で、「枠」を用意することにした。

実を言えばイベントの中身は、枠を設定した段階では決まっていなかった。枠さえあれば何かしたいという人は出てくるだろうと思ったからだ。果たせるかな10月から始めたイベントは、その週のうちに年末まで登壇者が埋まってしまった。オンデマンドで受講できる授業が多いからこそ、まとまった時間をとってこうしたイベントができるわけで、もしかすると今年限りのものになるかもしれないけれど、やろうと思えばこれだけの協力が集まるという事実は、とても心強い。

初回のイベントでは、大学・学部についてざっと紹介した。社会学とはどんな学問なのか、どんな資格が取れるのか、就職に有利な業界はあるのか(答え:そんなものはない)など、これまでであれば先輩や同期の友人の噂話で聞いていたようなトピックについて、あくまで個人的な見解ではあるものの、こういう感じだよ、という話をしたのだけれど、感想を聞いている限りはおおむね満足そうだった。

それよりも興味深かったのは、教員・スタッフの反応だ。登校再開初日から、少しでも時間があれば学内を歩いて学生たちの様子を観察するようにしているのだけれど、「オンラインで一緒のクラスだったよね?」「実際に会ってみたら意外と背が小さいんだね」といった会話が交わされている様や、対面イベントをきっかけに知り合いになった学生の話をすると、一様に嬉しそうな顔をする。ああ、よかった、と人に思われる仕事をするのは生きていく上で一番のモチベーションになるものだけれど、このままでいいなんて誰も思っていないというのを感じられるのは、すごくいいことだなと思った。

この先に対策すべきこと

ではこれでめでたしめでたしなのかというと、そういうわけでもない。むしろ状況が動き出すほど、対応すべき課題は深刻化する。その一部は僕ら教員のレベルではどうにもならないこともあるけれど、現時点で見えてきていることを挙げてみよう。

経済的格差への対応

まず、学生間の格差の問題だ。これまでは「世間は動き出しているのに大学生だけがなぜ」という不満だったものが、対面授業の一部再開によって、多様化しつつある。規模の小さい大学や学部ではほぼ全面的に再開というところがある一方、首都圏では入構制限が続いているところもある。「なぜ私の大学・学部ではまだ再開されないのか」という不満・抑圧は、これまで以上に学生たちの心にのしかかるだろう。期間が長期に渡ることも含め、メンタルケアが重要になるが、大学から一方的に様子伺いをするだけでは限界もある。ソーシャルメディアで愚痴をこぼしても思わぬリプライで余計に傷つくかもしれない。自治体レベルでのホットラインの開設(むろん対象は学生に限らないが)などの措置を検討すべきだと思う。

もうひとつ、学生間の格差としては経済面の問題もある。景気後退が長引けば学費負担が重くなり、また家計支持者の事情が急変する可能性も高まる。こういう状況でたとえば一律に学費を減額すると、家計が苦しい人と余裕のある人の格差は温存されるか、退学等によって広がってしまう(また、余力のある大学とそうでない大学の格差も広がる)。平等な学費減が公平な負担減を生むとは限らないのだから、大学レベルでは奨学金や設備投資などを通じて再配分していくことが求められる。特に奨学金については数年単位での支給が求められるので、基金化は必須だと考えられる。むろん、政策レベルでの手当も別途で検討する必要はあるだろう。

ハイブリッド化に伴う負担

より大学の実務レベルに近い話としては、多様な学生の事情に配慮するということがあろう。対面再開を望む声が大きく取り上げられるほど、様々な事情で大学に通うことが難しい学生の立場は孤立する。先述したイベントでも、オンラインでしか大学にコミットできない学生のために会場の様子を撮影し、動画で配信するようにしているし、授業もいわゆる「ハイブリッド」、つまりオンラインと対面を併用し、オンラインで受講することも可能にする必要がある。

ところが、このハイブリッド化に伴う負担増は凄まじいものがあって、僕の講義で言えば、動画素材の準備、教室の撮影と事後の編集、エンコード、アップロードといった作業で、単純に2、3倍の時間がかかるようになっている。この作業が恒久化するのだとすれば、たとえば生活の苦しい学生を雇用して編集、公開作業をお願いする形で、再配分と負担分散を両立するなどの措置は絶対に必要だ。なぜなら、この負担に耐えられない教員のオンライン授業の質は高まらず、「対面でもやっているのだから来るのが当たり前」「感染を恐れて登校しない学生の自己責任」といった形で、不利な立場の学生こそ放置されるという問題を引き起こすからだ。

コミュニティの崩壊を防ぐ

そして最後に、長期的な課題として「コミュニティ」としての大学の機能をいかに維持し、継承するかというものがある。正直なことを言えば、オンライン、オンデマンドのほうが助かるという学生の声は小さくない。厳しくなると予想される就職活動の状況を考えても、「大学には必要最小限のコミットで済ませて、早期からインターンなどで企業との接点を持つべき」と考える学生は増えるだろう。オンライン環境を充実させればさせるほど、「わざわざ大学に来なければいけないのは負担だ」という声も出てくるようになるかもしれない。これまでは「来るのが当たり前」だったからこそ、そこで渋々でも通っているうちに自然と感じられた大学のコミュニティ感覚が崩壊すれば、結局のところ「裏のカリキュラム」が機能不全に陥る。

こうしたことを避けるためには、オンラインでの参加で不利が生じないように配慮しつつ、対面することや登校することの意義、メリットを明示的に示していく必要がある。サークルであれゼミであれ「1年生は文句を言わずに言われたとおりにやっていればそのうち分かる」という古いやり方では、もう通用しなくなるだろう。むろんこれは大学に限らず、企業、組織を含めた社会全体の大きな課題であり、ジョブ型雇用だの働き方改革だのと言われているトピックとも連動するので、実は根の深い問題だ。

「対面か、オンラインか」「悪いのは大学か、国か、学生か」といった表面的かつ非本質的な議論、というより「外野の野次」に流されている限り、このような本質的で、長期的な取り組みを必要とする課題を解決することはできない。緊急措置の続く状況でそこまで見通して動くことはとても難しいけれど、せめて課題感だけでも共有していけないか。そういう考えからこの数ヶ月、可能な限りのメディア露出を通じて「パブリック社会学」の実践をしている。