対面の再開と対面の強制

雑記

対面授業は再開されていないのか

大学では、後期(秋学期)がスタートする時期になっている。勤め先でも8月からワクチン接種が始まり、いまがちょうど2回めの時期ということで、副反応を理由に欠席する学生も多いようだけれど、夏休みの時期よりはキャンパス内もにぎやかになってきたように思う。

このように書くと、大学は再開しているのかと思う向きもあるかもしれない。しているとも言えるし、まだまだとも言える。毎日新聞が報じているように、ワクチン接種を進めている大学の中でも、スタートが遅れたことや緊急事態宣言下であることなどを理由に、後期のスタートから全面再開とはいかないのが実情だ。

ただ、ここで注意しなければいけないことがある。同じ記事にもある通り、ゼミや実習といった対面で開講することが望ましい科目については既に学内での受講が可能になっているということだ。これは勤め先に関して言えばこの春からずっとそうだし、昨年の秋学期からはキャンパスに入構して、オンライン授業であっても学内で受講することもできるようになっている。つまり、昨年の春のように「オンラインで受講することが原則で、大学にも入れない」という状態ではない。

実際の学生の目線で言えば「大学には行こうと思えば行ける」「しかし対面で開講されている科目は週に数コマ」「多くの科目はオンライン受講が可能」「緊急事態宣言も出ているし、わざわざオンラインで受講するために大学に行く必要はない」「結果的に大学ではなく自宅で受講することが多くなる」という状況だと言える。このような「結果的に自宅でオンライン授業」という流れが理解されていないと「対面が再開されているのか、いないのか」という二択でものごとを考えてしまうのだが、そういう単純な話ではないのだ。

サークル文化の消滅?

もうひとつ気になることがある。NHKが報じている「サークル文化の消滅」だ。1年以上続くコロナ禍の影響で、サークル文化を継承する基盤が失われ、友人から得られていたインフォーマルな情報が届かなくなるといった弊害が生じているというのだ。こうした情報入手の文化的基盤を僕は大学の「裏のカリキュラム」と呼んで、それが大学から失われる可能性についてたびたび指摘してきた。そして、失われたインフォーマルな関係は、フォーマルな場でカバーされなければならず、大学や教員への負担となって跳ね返ることにも注意を促してきた。僕自身、学内で学生を交流させたり学生活動の企画を立ち上げたりして1年以上奔走しているが、研究でも授業でもないこうした仕事は、文字通りのボランティアでしかない。

では、仮にワクチン接種が進み、大学が全面再開されると、サークル文化もまた復活するのだろうか。そうとも言えない理由がいくつかある。まず、NHKの特集の中にもあるように、サークル文化は1980年代のような活気のあるものではなくなっている。別の記事でも書いたとおり、2019年の大学生の生活時間のうち、サークルで活動する時間が「ゼロ」だった学生は56%にのぼるというデータもある。そもそもコロナ以前からサークルは大学生の生活の主流の活動ではなかった。

学生の流動性が高まっていることがその原因だというのも、以前から何度か指摘している。大学生が活躍できる場は学内にとどまらなくなっており、その気になればベンチャー企業でインターンを行ったり、NPOを立ち上げたりといった「意識の高い」活動に携われるし、学生の集団を引っ張ることができる意欲やスキルのある人は、アルバイト先でもリーダーとして頼られる実力を持つので、自分を成長させる機会になる大人との仕事のほうを優先させる。要するに「できる人ほど大学にいない」状態になるのである。

コロナ禍は、こうしたサークル文化にある意味でのとどめを刺した。かつてのように大規模サークルを取り仕切り、マスコミも注目するような大規模イベントを主催し、その実績をもとにマスコミや広告代理店に就職するといった「チャラい」サークルはなりをひそめ、情報交換や友だちを作る場として学生が任意に集まる場になっていたサークルは、「なくてはならない」「なんとしても残したい」ものではなく、ほとんどの学生にとって「あれば利用したいが、苦労するだけの幹部にはなりたくない」というものだったと言える。「やってはいけませんよ」と言われてその文化が消滅するのは、「それなら自分が奮闘して残すほどのものではないし、自分にはその実力もない」という環境がすでにあったからのだ。

問題の本質は「対面の強制」

一方で、興味深い動きもある。いま、任意のサークル活動が制限される中で学生たちの注目を集めているポジションが「運動部のマネージャー」になっているということだ。運動部は大学公認の活動であることも多く、また大会出場などの実績が明確で、大学のサポートを受けているところもある。ゆえに、サークルのように活動を制限される度合いが低い。実際、昨年段階で大学が再開に向けて検討する中で「運動部の練習や大会の出場の基準」もその項目の中に入っていた。選手たちは実績を残さなければ後の進路にも影響するという事情があるとはいえ、サークルとは「別格」の扱いだ。

選手として運動部に参加できない学生でも、こうした「お墨付き」のある活動にマネージャーとして参加すれば、学生間のつながりや、就職活動時の「学生時代に力を入れた経験」を得ることができる。対面で継続すると分かっている活動であれば、参加したい学生は一定数いるということだろう。

結局のところ、大学の賑わいを取り戻し、サークル活動も含めた学生文化を復活させるために必要なものはなにか。それは、対面の活動を再開することではなく、対面の活動を強制することにほかならない。「参加してもしなくてもいい」「オンラインでも参加可能」にしても、人はわざわざ任意の活動に参加したりしない。「この授業では出席を取りません」と言われたら「出なくてもいいのか」と思う学生が多くなるのは当然の理だ。「ほとんどの授業を対面で開講し、オンラインでの受講は原則として認めない」と言わない限り「なんとしても大学に行かなければ」というモチベーションは生まれないだろう。

サークル文化は、このような「対面を強制される環境」が生み出したものでもある。1限に必修授業、3限に大教室講義があるから、2限の間はサークル室で過ごそう。そうこうしているうちに時間が過ぎ、今日はもう3限も出なくていいか、という「一日の大半を大学で過ごす」ライフスタイルを、良きにつけ悪しきにつけ支えていたのがサークル文化であり、そこでのつながりだった。大学にいるからサークル室でだらだら過ごせていたのが、大学そのものがオンライン「でも」受講可能な環境を提供すれば、大学にだって「別に行かなくていいか」となる。

消極的な居場所欲求の受け皿

もちろん、こうした悲観的な予測にいまのところ根拠があるわけではない。ただ、過去10年近く学生たちの学び合いの場をつくるという仕事に携わってきた経験からすれば、そして、実際に大学に「入る」ことはできるにも関わらずサークル活動を盛り返そうという動きが活発であるように見えない現状からすれば、「かつてのような大学に戻る」ことは期待できない。というよりも、大学だけでなく企業においてすら「対面での出社を強制する」ことの是非が問われているときに、活動範囲の広い学生に対して「大学も中高と同じように対面の登校が必須です」というのは時代に逆行しているだけでなく、むしろ別の面で学生活動を制限することになる。

おそらく今後のもっとも大きな課題になるのは、「自分でサークルを立ち上げ、積極的に活動する意欲はないが、友だちをつくる場はほしいし、あればあったで大学でも楽しみたい」という「消極的な居場所欲求」を抱えた層の受け皿をどうするかということだろう。こうした層は(悪い意味ではなく)フリーライダー傾向が強いので、何らかの形で強制的に参加させられる場があれば、その環境に合わせて人間関係を構築すると考えられる。

悪いシナリオは、NHKの特集にもある通り、悪徳バイトだとかカルト系の団体がその受け皿になるというものだ。こうした事態を避けるためにも大学は、意欲のある学生がサークルを立ち上げたり再開させたりすることが制限されないようにしなければいけないと思うし、必要に応じて対面受講を義務化した科目を一定数用意することも検討すべきだろう。

僕自身、学生たち、卒業生たちと話しながら「大学やサークル文化はこれからどうなるのだろう」という漠とした不安を耳にすることが多い。かつてあったものをそのまま残すことにこだわる必要はないけれど、「あってもいいもの」が残せないのだとすれば、それは安全とは別のレベルで、社会が何かを失っていることの現れだと思う。

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