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雑記

2023年5月8日をもって、この3年、日本社会を統制していた「コロナ対策」は、特別扱いされることがなくなる。勤め先の大学でも先だって、この日をもって「コロナ特別対策本部」が解散され、すべての制限が撤廃されるというアナウンスがあった。「コロナ対策の終わり」と「コロナの終わり」はまったく別のものだろうけれど、両者を同じものだと受け取る人は少なくないだろう。

学生ですし詰めの満員電車や、観光地の長蛇の列を見ていると、ああ、この3年はほんとうに非日常だったのだなと実感する。人のいない京都のお寺や美術品をじっくり見て回ることができたのはありがたかったけれど、「あれはあれでよかった」なんて到底言えない。そのくらい、苦しいことだとか、永遠に失われたものが多かった3年だったと思う。

大阪大学のグループの研究によると、「新型コロナ感染禍に接した直後(2020年1月)の心理を1年後に回顧させると、過小評価する傾向が顕著に見られた」のだという。2021年の時点ですらそうなのだから、おそらく僕たちの回顧バイアスは「2020年の春ってなんかワクワクしたよね」くらいに記憶を歪めていそうだ。そりゃそうだ。僕たちは辛いこと、生々しいことを忘却したり書き換えたりするからこそ生きていけるのだし。ただ、それを忘れられる距離感の人とそうでない人がいる以上、個人の中でどれだけ記憶を書き換えても、異なる記憶を生きている人と感情が共有できるとは限らない。

それはきっと個人と個人の間だけでなく、一人の個人の中にあっても言えることだろう。ある部分では「コロナ明け」に清々しい思いをしつつ、またエンタメやスポーツの興行のにぎわいに心を踊らせつつ、一方で、その賑わいの中にいない人のことを思い出したり、いろんなことがなくなって悔しさに涙していた場面を振り返ったりして、いまいち盛り上がりきれない気持ちになる人が、実は多いんじゃないだろうか。

この「すべてを忘れて再び歩き出そうとするたびに、あのときのことが思い出される」という忸怩たる感覚は、もうしばらく、というより長いことこの社会に影響を及ぼすのではないかと思う。これまで、たとえば災害や事故に遭った人が経験してきたこの「永い永い回復への路」を、僕たちは全社会的に経験することになるし、その反動から起きたひとつひとつの出来事に「ああ、こういう人が生まれてしまうような時代を、私たちは生きたのだな」と感じ入ってしまうような、そんな時代が来るのだと思う。

忘れたくない、とは思わない。できることならすべてをなかったことにして再起したい。けれど、忘れてしまうこと、というより、思い出しても何も感じなくなることが、自分にとって大切ななにかまで捨ててしまうことになるような気がする。

だから、ひとつの区切りのタイミングに、せめてこの3年、どんなことを考え、行動してきたのか、ブログ記事を振り返っておきたいと思った。もちろん現在を起点にした回顧だからバイアスはあるだろうけれど、ここに書かれた文章は、そのときのものだし。

2020年

一番最初にコロナ禍について言及したのは、大学の卒業式が中止になり、その年の卒業生に向けたメッセージを書いたときだ。

卒業生へのメッセージ 2020 « SOUL for SALE

もちろん学生たちがこれを読んだのかは分からないけれど、SNSではちょっと話題になった気がする。内容としては、「無意味な儀礼」だと思っていたものにも何らかの理由がある。だから、いまは「なくなったら困る」とか、逆に「なくなってよかった」と思うかもしれないけれど、これから、本質的に大事なことはなんだったのかを考えるときがくるという話。その後、リモート飲み会とかオンライン訓示とかいろんな取り組みがあったけれど、基本的には「心理的安全性の高い場を作るために行事やイベントを設計する」という流れに収斂しつつあることを思えば、正しい予測だったのだなと思う。

本格的にコロナ禍について考察した最初のエントリでは、ユヴァル・ノア・ハラリのいう「全体主義的監視か市民の権限強化か」「国家主義的な孤立かグローバルな結束か」という二者択一が不適切であることを指摘した。情報社会論的に言えば「市民の権限強化を伴う、権力による監視の強化」が起きるのであり、国際関係論的には「国家や市民セクター、企業、ソーシャルメディアの言説などがそれぞれ独立した動きを見せ、互いに綱引きをしながら、そのバランスの中でものごとが決定されていく」ということになるというわけだ。

「コロナ後の世界」は来るか? « SOUL for SALE

いま振り返ったとき、この見立て、どちらが正しいとも言いにくい。とりわけロシアのウクライナ侵攻や生成AI技術を巡って米欧で盛り上がる規制論を見ていると、情報(技術)による社会の統制が難しくなるところと強化されるところがあって、その塩梅をめぐって国際社会が連帯したり綱引きをしたりしている状態だと言える。いずれにせよコロナだけが世界情勢を動かす要因ではないので、この点については引き続き検討が必要だろう。

その「社会の統制」について考えたエントリでは、「コロナ対策」をめぐって、アントレプレナーというか、広い意味での「自営業者」の感覚と、政府の意図とのすれ違いについて論じた。アントレプレナーは「自分でなんとかするし、お上には期待しないので自分のことを縛るな」と言う一方で、欧米のような原理原則やアジア圏の権威主義体制のような基盤を持たない日本では、政策も「個人に工夫と努力をお願いする」という、個人への責任の押しつけと「だが政府の権威には従わせたい」という権威主義のまぜこぜになったメッセージが流通するというわけだ。

起業家精神と社会の統制 « SOUL for SALE

ひるがえって見れば、この点でも何かを発言するときに「アントレプレナーの味方か、政府・権威の味方か」という対立は、しばらく続いたモードだったと思う。というより、誰の味方であるかをはっきりさせないと、ものが言いにくい感じもあったかな。

6月に書いたのは、「アノミー」という社会学の概念を用いたエントリ。コロナ禍で「楽になった」ことの多くは、社会的な規制力が弱まったことの現れだと言えるのだけど、エミール・デュルケムによれば、そのような規範の弱まりこそ「アノミー」なのだ。

自己本位的になる社会 « SOUL for SALE

問題は、そのアノミーが社会で一様に生じるのではなく、むしろ社会的分断を助長するのだということなのだけど、この分析、まさにいま「盛り上がれている人」と「いまいち乗り切れない人」の間の分断にもなっているかもしれない。また、ここでは考察していないけれど、デュルケムがもともと注目したのは「好景気のときに自殺が増える」という現象であり、「制限が撤廃されて自由になったからこそ生じるアノミー」というのも、社会の危機のひとつだということだ。この点は、これからまさに注目すべきところかもしれない。

またちょうどこの頃になると、「大学の再開」が焦点になり、大学論のようなエントリも出てくる。2020年は学部の役職を担っていた時期でもあり、3月末に新入生ガイダンスのオンライン化を突貫工事で行って以降、オンライン授業の工夫とか、学生のみならずICTに不慣れな同僚のサポートなども行っていたので、文字通り人の三倍働いていたと思うけれど、それでも失われてしまった「裏のカリキュラム」をどうするのか、この頃は真剣に考えていた人も多かった。

大学の「裏のカリキュラム」 « SOUL for SALE

様々な制限が緩和される中で、この対応も「正常化」しつつある。すなわち、本来なら学生どうしが(未熟だったり間違っていたりすることも含め)自分たちでなんとかしながら過ごしていた「大学の裏のカリキュラム」を、学部でイベントを主催するなどして代替してきたわけだけれど、そうした活動を、学生自身の手に戻そうというわけだ。

ただ、実はコロナ以前から「大学側が主催しないと学生間のつながりが希薄化するのではないか」という危機感もあり、複数の大学でそうした取り組みが行われていた。けれどコロナ禍を経て、その「希薄化」とされていた状態も「ニューノーマル」として受け入れられるようになり、大学があれこれ口を出すのもおせっかいかもね、ということになったようだ。

ちなみにこのとき行った対策について書いたエントリを読むと、いまもあのときのざわざわした気持ちが蘇ってくる。多くの人が必死だったのは分かるけど、矢面に立って対策を引き受けることで、まったく関係のない人からも罵詈雑言を浴びせられる機会が増えた。この頃からネットの情報やSNSから距離を置くようになり、オンラインでつながっていた人たちとどんどん疎遠になっていったと思う。

3ヶ月間のオンライン対応 « SOUL for SALE
「大学生の日常」のために、大学ができること « SOUL for SALE
オンライン化で失われたもの « SOUL for SALE
「裏のカリキュラム」を表に « SOUL for SALE

振り返ってみれば2020年は僕にとって、「誰もが叩き放題の敵を探していた」年だったと思う。もしもコロナが社会を分断したのだとすれば、少なくとも僕にとってその原因は、自分で行動して影響を及ぼすことのできない、あるいはその意志のない出来事に対して文句ばかりつけていた人たちにある。行動が制約されていれば文句しか言いようがないのは仕方のないことだし、様々な制限の解除とともに、そうした声のトーンが小さくなっていくことも自然の流れだろう。僕は忘れないけど。

そのへんの気持が、2020年末のエントリには生々しく綴られている。

立ち止まるか、動くか――2020年のまとめ « SOUL for SALE

2021年〜2022年

そんなわけで、2021年以降、ほぼエントリを書くこともなくなってしまった。オンラインで沸き立つ見えない敵意を意識しながら文章を書くくらいなら、少しずつ再開された大学で、目の前にいる現実の人のために働くほうがよっぽど有意義だと思ったからだ。

「負け戦」に立ち向かう « SOUL for SALE

おそらく、この「バカバカしくてやってられない」という感覚は、2021年の春頃には社会的にも広がっていたように思う。ルールは形骸化し、感染抑止のためではなく、ルールだから守るものになる。2020年の3月に書いた「無意味な儀礼」として感染抑制策に従うという人が増えてくる。なぜ、なんのためにという目的が抜け落ちたときに、人が気にするのは「みんながどうしているか」ということだけだ。

おおっぴらに路上飲みというのも見られたけど、人目につかないレンタルスペースなどで内輪の集まりを持ったり、少人数旅行に出かけたりするSNSの投稿が増えるのもこの頃だ。個人的には、大学で行われている感染抑制策と、プライベートでは遊びに出かけるSNSの投稿の間にはさまれてかなりメンタルをやられた時期だった。おそらく2020年の夏前頃に苦しい思いをしていた大学生と同じ感情だったと思う。

「外野の野次」との付き合い方 « SOUL for SALE

とはいうものの、再開されてきた活動の水準に合わせて、できるだけのことはしたかった。これもエントリには何度か書いているけれど、2022年は「鼓舞激励」を自分のテーマにして、様々に止まっていた活動を再開させた。というより、2020年には某社の副業も引き受けたし、この3年、メディア露出の機会も増えた。今年からは別の会社でのお仕事も始まっている。とにかく、ものすごく働いた3年だったのだ。

「もう何の話もしたくない」 « SOUL for SALE

おそらく、個人としては大きく成長したし、成し遂げたことも多い。一方で世の中を見ると、またコロナ以前の体制に戻すという人もあるし、コロナ禍のほうがよかったという人もある。2020年の段階で書いたのと同じだ。結局人は、もともと自分がいた「水」の中にとどまり、世の中がぜんぶ自分に合わせていればそれですべてが解決するのに、と思っているように見える。けれど実際にはそういうことは起きないので、文字通り「外野の野次」でしかない。

2023年

こうやって振り返ると、多くの人が経験したように、自分も「関わるべき人たち・気にするべき言葉」を選ぶようになったのだなと思う。意図していなくても、自分が手掛けている仕事に関心のない人とのお仕事は今後も減っていくだろうし、逆に自分しかできないことを認めてくれている人とは、もうしばらく密なお仕事が続きそうだ。

また、この数年の間に蓄積した教育論なり社会論なりも、そろそろまとめの時期かもしれない。僕はどうしても「まとめ」という作業が「もうこれは終わったので次のことをしますね」というのと同じものに思われてしまって、まとめたそばからその話に飽きてしまうのだけれど、だからこそ自分が飽きる前にやっておくのがよいのかもしれない。

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